歩き回る虎

なんだかんだ10年近くはてなを愛用する村人です。アニメや漫画やゲーム等のオタク系レビュー、投資日記、世の中のこと、ツイッターで書ききれないこと等を書き連ねる雑記ブログです。

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【レビュー】高畑勲監督『平成狸合戦ぽんぽこ』、ここ数年で一番つらくて心が痛い戦争映画でした・・・

平成狸合戦ぽんぽこ 感想 たぬき 高畑勲

たぬきだって、がんばってるんだよ

 

 平成も終わろうとするタイミングで超絶今更ですが、ジブリの『ぽんぽこ』を昨夜初めて最初から通しで最後まで見た勢です、こんにちは。

 

 率直な感想を言うと「とにかくつらかった」。特に後半に進むにしたがって悲壮感で画面を正視できなくなるほどです。高畑勲監督だからといって油断できないと思ったけど、本当にえげつなかった。

 

 これは『火垂るの墓』の延長上で同じジャンルにある、生存戦争に敗北して滅びゆくものたちの悲哀と滑稽さを克明に描いたハードな戦争アニメです。

 

  「トトロ」的なものを期待して観に行った子供がラストシーンで感動ではない涙を流すのが目に見えます。ある意味では『まどマギ』のビジュアル詐欺よりもよっぽどエグい!

 

 以下、箇条書きで思ったことをつらつらと。

 

 

 


映画 平成狸合戦ぽんぽこ CM 1994年

 

・ 『ぽんぽこ』の本筋は、住処の山林を切り崩す人間達の多摩ニュータウン開発を、野生動物離れした高い適応力と独自の变化能力を持つ誇り高い多摩たぬき達が結託して、人間共を追い出してやろうというもの。だけど、「裏のテーマ」としてこれは太平洋戦争の日本とアメリカの戦いをなぞらえた、何もかもが違いすぎる無謀にも開戦し消耗してゆき、滅んで消えていく敗北者の哀愁と痛みを描いた作品だと思う。

 

・昭和の多摩市にまだ山深い自然が残されていた頃のたぬきは「戦争の結末」を知らないから勇ましく楽しそうに人間共に戦争を仕掛けようとする。しかし、平成6年以降にこの映画を見た全ての観客は「戦争の結末」を知っている。それゆえにたぬき達の抵抗がいかに無力で滑稽かを、まさに全観客がリアルタイムで感じながら観る作りの映画になっているのだ。

 

・最初こそたぬき達は生物として自信満々。「俺達の力を思い知らせてやる」と勇ましく人間との戦争に赴き奇襲攻撃で工事現場の人間を撃沈。勝利に酔いしれて楽しそうに宴を開くたぬき達だがそれが頂点だった。いくら人間と工事重機を壊しても代わりは瞬く間に補充され、決死の覚悟と作戦も虚しく開発は滞りなく進んでいく。ここから戦況がじわじわと悪化してゆき(というか最初から勝てる戦いではなかったが、じわじわと現実を思い知る事になる)希望を喪くし、合戦を楽しむゆとりも自信も目に見えて消失していく。それを完全なる敗北の日まで執拗に丹念に描く様が実に痛ましい。

 

・そして、開戦のはじまりが派手な暴力に訴えた奇襲攻撃で最初は大勝利するものの、そこがピークとなり逆に圧倒的勢力差を思い知る…という流れは真珠湾攻撃をどことなく想起させる。

 

・人間達の圧倒的文明力を知っていて正面から武力行使したら返り討ちに合うのは火を見るより明らか。それに暴力に訴えた強硬派の権太は結局暴力で重傷を負ってしまった。「暴力を投げれば暴力が返ってくる」と学んだたぬき達は「化かし」を駆使することで人間に己の存在を刻もうとする。

 

が、始めは怖がった人間達も次第にたぬきの「化かし」をテレビ特集の人気コーナーとして娯楽消費をするようになってしまった。たぬき達は種族の尊厳と生存を賭けた決死の闘いに身を投げだしているというのに、人間達は笑って見世物扱いするだけ。自分達の存続を脅かす大いなる天敵に知恵と戦術を尽くして必死で抗うも、人間達はたぬきを敵とすら認識してくれないまま。身を切るような屈辱を受けたたぬき達は泣き、怒り、悲しむが、闘志だけは失うまいと戦友同士傷を舐め合いながら踏ん張っている。

 

・四国に使いにいったイケメンたぬきの玉三郎、聞いた事がある声だと思ったらやっぱり神谷明さんだった! 最近は冴羽獠やケンシロウキン肉マン毛利小五郎ばかり聞いてたから、彼の優男演技は久々に新鮮で良かったー! 『YAWARA!』の風祭さんチックな。

 

・最後っ屁となる最終決戦、たぬき一族の全存在意義を賭けた『妖怪百鬼夜行パレード』でさえも、余裕の人間達には一夜を賑わすキレイなアトラクションとして楽しまれただけ。命がけのたぬきと違って、人間達はほぼ何一つ傷を負っちゃいない。妖怪騒ぎで痛手を負ったかと思えば、したたかにそれをプロモーションに利用する企業まで現れる。最初から何もかもが違いすぎてとても「戦争」になんぞならなかったのだとトドメの如く思い知らされた。ここが実質的な敗戦の瞬間。

 

全存在を賭けた戦争を仕掛けても、とうとう最後まで人間達にたぬきを敵だとすら思わせる事すら叶わなかった。戦士としてこれ以上の屈辱が他にあろうか。

 

ここでたぬき側に感情移入していると本当に虚しく、やるせなく、つらいのだが、我々は平成を生きる人間でもあるため、たぬきの化け様や言動が楽しく面白いと思う気持ちも同時に味わっている。それがまたつらい。

 

百鬼夜行パレードの中で、キキやポルコやトトロを見つけたけど心境的にはそれどころじゃない。

 

・たぬきがどうあがいても開発は凄まじいスピードで進められていき、敗色は濃厚になっていくばかり。勝利などとうに見失い、犠牲しか生まない闘いにただ引き下がれずに身を投じていくしかない。絶望感から前線で戦う化けだぬき部隊は発狂して「宝船で彼岸へと去ってしまう」。化けだぬき部隊が人間から奪ってくる食料で生きながらえていた「化けられない弱者たぬき達」は飢えて倒れ、しまいには踊り念仏を踊る集団として現実逃避する。

 

・そしてついに訪れる完全敗北の日。圧倒的な力に飲み込まれたたぬき達は、化けられる者は人間に擬態して疲弊しながらたくましくヒトの日常生活に溶け込んでいた。化けられないたぬき達は町田に移住し、ヒトの残飯を漁り餌を恵んでもらいながらどっこいたくましく生きている。

 

たぬき達の基本的に勤勉で近代技術を模倣してものにするのが上手いのに、最終的に頼みにしたのは「オカルト(カミカゼアタック)で圧倒的格上の相手をビビらせる戦法」という辺り、特に太平洋戦争における日本兵を彷彿とさせました。

 

『たぬきのキン○マ八畳敷攻撃』をこれでもかこれでもかとしつこくフィーチャーしていたのは何や?と思ったけど、バチーンと弾けて文字通りの「玉砕」と言いたいがためだったのかと判った時はひざを打った。おもろうてやがてかなしきたぬきかな。

 

・リアリスト然ともっともらしい正論を吐いたり同胞意識を煽りながら、きっちり同胞のたぬきを仇敵の人間に売り飛ばす狐野郎(あの言い方だと紹介雇用の際、少なくないピンハネをしてるだろう)。マジで嫌なやつなんだけど、こいつに頼るほか生存の路が無いというのがつらい。

 

・自分達のアイデンティティとなる文化を曲げて、敵の圧倒的文明と同化しなくては生きていけなくなったたぬき達(これまでは自発的に行っていた人間研究が強迫的な義務になった)。わりとそのまんま戦中→戦後の日本人ですね。

 

初手から負けが確定していた戦と、奮闘しても報われず完全な絶望へと至る道程を長尺のお笑い噺として描くというエグいことをしてきた本作だけど、都会の社畜生活に疲れた主人公たぬきが最後に見つけた希望の森。生き別れて再会できたかつての親友の元へたぬき姿に戻りながら全開の笑顔で駆けていく一筋の救いのラストシーンが、ED曲が流れて場面が俯瞰していくとそこさえ人間が開発したゴルフ場でした…と見せつける皮肉なオチ!! 最後の瞬間までこれだよ!

 

宮崎駿のスタンスは反戦寄りだけど、彼は生粋の乗り物フェチだからなんやかんやで戦闘機のカッコよさや爽快感があるんですね。高畑勲監督の戦争描写は宮崎駿のソレからカッコよさを全部引いて観客に陰鬱な印象しか残さないイメージ。

 

・ラストのカメラ目線のぽん吉くんのメタ台詞の意図は「開発が進んで野生動物が“消えた”じゃねえよ。お前ら人間達が“消した”んだ。他人事みたく言うな!」って事でしょうかね。

 

そして、生まれ育った住処を圧倒的文明に侵略され必死で生存しようとする儚い弱者達の悲哀を描く本作の主題歌が、日本に出稼ぎ労働者として来たアジア人労働者の悲しみを慰める上々颱風の名曲「アジアのこの街で」「いつでも誰かが」という所まで最高に味わい深い。

 

・『黄金の魔法が輝く東方の島国の争いに傷ついて涙して心が塞いでも、私達は同じアジアの空の下いつでもあなたのそばにいる。だからあなたの産まれた国の言葉を笑って聞かせて欲しい』と歌う上々颱風のテーマ曲を、高畑勲監督は明らかに強いメッセージ性をもって選んだはずだけど、これまで本編はろくに見てなかったくせに平成6年の時からずっと好きな曲として記憶に残っています。